あー、そうか 下の記事の 「ワートリとは関係ないけど神話感想」と その続きの「無題」書いて その後 仏教的には夫婦は同じ蓮の臺(うてな)に乗って浄土にいくんだよねとかその辺の事思い浮かべてて気が付いた、
私が嵐山迅カプにはまった理由。 (そして立迅とかじゃダメな理由)
片方だけだとめちゃ寂しそうだからだ。
嵐山は愛が重くて暑くて熱くて厚くてあまってて、っていうイメージが強く、 かといって弟妹が結婚したらその結婚を泣いて喜ぶだろうと思えるし その夫婦仲をいつまでも仲睦まじく暮らしてほしいと願うだろうと思うんだよ、 でもそれはそれとして寂しそうだし余った愛はどこへ向かうのかとか考えるんだよ それと迅、迅が寂しいというか他人の為に師匠の形見を渡したり、それも三雲や空閑の為で、それは先の未来で三雲が殺されないためであり空閑がボーダーに命(指輪)を狙われないようにするためで、それは全体のすべての人たちが生き延びるためで、 そういう、全体の、みんなの為に自分の心を後回しにする奴で そうして守ろうとした相手をそれでも囮にしたり死ぬような目に遭わせなければならなくて、 自分の心より守ろうとした相手を囮にしたり死ぬような目に合わせたのは全体を守るためで 自分を後回しにして苦しめてでも守ろうとしたものをさらに後回しにし(苦しめ)なければならないほど全体を守るためにさらにさらに苦しめなくてはならなくてその罪と重さを全部背負って全部守ろうとするような奴だから もう、こいつ最優先で愛してやる奴が欲しいのですよ
死んだあと同じうてなに乗ってくれそうなくらい一番に思ってくれそうな人、 ただし!迅は自分を後回しにするので同じうてなに乗ってくれるような優しい人には他の人と一緒に乗るようにお勧めすることがもう前述でよくわかるのでここで 「いや、お前と乗るよ?」って言ってくれそうなくらい愛が余ってそうなのが嵐山。
…そうか私、もし迅が死んだら、同じ墓に入ってくれそうなというか同じうてなに乗ってくれそうなくらい愛してくれそうな人として嵐山を見ている…?
この世ではもちろん、あの世でもお互いに死んだらという条件ののち、一緒にいてくれそう。 しかも生きている間中、生活習慣とか面倒見てくれそう、 生きている間中ちゃんとそれが「昼」(時間的な意味でなく生命力の話)であるように、 なんなら「朝」(時間的な意味ではなく、幸せ的な意味での話)であるようにメンタルとかいろいろ、しかも自然体で無理せずに引っ張っていってくれそう。 |
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